しろくまとわたし
同じ年齢の女性が職場にいるのだが、仕事の内容も立ち位置も違うのだから気にしなくてもいいのだろうけれど、ずっと違和感があり、埋めることの出来ない認識のずれがあり、でもどちらがいいとも悪いともいうわけでもなく、思い至ったのが「種が違う」であった。
ただ、そう思い至ると、淘汰されるということであり、新しい職場を探さなければと焦っている。
インプットしたい(仮)
なんだか食べ物系の映画ばかり見ている。
まずは『大統領の料理人』
「素材の味を活かした家庭料理を食べたい」というフランス大統領の料理をつくるべく、突然選ばれた女性が主人公。
大統領専属のシェフとして2年間働く。
現在は南極の基地で働いている。
何があったの?
これからどうするの?
感想
「フランスの家庭料理、すごく手が込んでる」
「トリュフ食べたい」
「結構年配の女性が主人公なのだけれど(宮本信子さんを彷彿とさせる)美人キャラ」
「主張の仕方、切り替えのうまさ、アプローチの間合いを学んだ」
次に『シェフ!』
シェフ! ~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~[初回版] [DVD]
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- 発売日: 2013/08/02
- メディア: DVD
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料理は天才的だけど、チャンスに恵まれない主人公。偶然三ツ星シェフに才能を認められ、トントン拍子に三ツ星レストランで働くことになるけれど、三星シェフは問題を抱えていて…
感想
「経営とクリエイティブって、いつも反りが合わない風だけど、そうなのかな」
「創作するって楽しそう」
「シェフって幾らぐらい貰えるのだろう」
「料理したい」
最後はこれ
タニタの副社長と同級生の栄養士が、新製品(体脂肪計)キャンペーンのために、社食も含めてダイエット企画でダイエットを目指す。
リバウンド、停滞期…ダイエットは自分を見つめること。
ダイエットに励む社員たちは、ダイエットを通じて自分の人生と向き合っていく。
感想
「優香かわいくてスタイルいい」
「仕事って何なんだろう。」
「絶対好きな食べ物があるって羨ましい」
「離婚したくない」
アホみたいな感想ばかりですが、仮なんで。しばし、しばしー。
シンゴジラ 途中
圧倒的平等感。
ネタバレあり!!ご注意ください。
シンゴジラを観た。
予習として、1954年の最初の『ゴジラ』を前日に観た。ちなみに初めてのゴジラシリーズ。最初と最後だけ観てるってことになったな。
第一弾目のゴジラは面白かった。
大人向けで、完結で、馬鹿な人が出てこないから馬鹿なやり取りもなくて、でも答えの出ない問題はあり、それぞれ自己完結し、で、大人しか出てこなくて面白かった。
『シンゴジラ』は、好きな男性と見に行ったのだが、感動ポイントがまっぷたつに分かれた。
私は「ゴジラかっこいい」
男性は「ゴジラ害獣!人間ドラマに感動」
まあ、震災とかあって、わかる。
ココらへんは難しい。
私は関東大震災当時関東に住んでいて、福島第一原発が吹っ飛んだのに気付く映像をNHK(だったと思う)でリアルタイムで見ていて、「ああ、終わった」と思ったのを覚えている。
そもそも「今日死ぬかもしれない」と思って生きていたタイプなので、覚悟を決めたというか、納得した。そして粛々と関東で暮らした。
近しい人をあの震災で亡くしているわけではないので、おこがましい気がして言ったことも出したこともないけれど、一回「人生終わった」と、あの映像を観た関東の人は思った人もいると思う。
だからこそ、意見が二分するんだと思う。
抗えないもの=ゴジラが持つ圧倒的平等感に、一瞬物事がフラットになる感覚。学歴も学閥も地位も名誉も関係なく、突然人生は終わる。死はいつだって寄り添っているけれど、金持ちと貧乏人じゃ、親密度が違う気がする。
でもでもでもでも そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!
ちなみに、私の一番感動したところは、ゴジラがなんかわからないやつをゲーッと吐いた後、よくわからない光線が背中から出てきたりして、東京を火の海にしながら練り歩くところです。
あの、何ていうんでしょう、サムシング・グレイト感がたまらなかった。
『ナウシカ』の巨神兵が蘇った感じとか、「死の七日間戦争」のあの殺伐とした感じを、リアルトーキョーで感じることが出来たのがよかった。
「きつい」「つらい」と想像していて苦しんでいたことが、映像化されたことによってより現実味を帯び、「いかに逃げるか」を必死で考えていたりすることにより、シュミレーションが増えて楽になったのかもしれない。プラス、どうしたって誰かが不幸になると、自分を攻めてしまう。「私に何かできたんじゃないか」「もっと私がこうしていれば」そういう苦悩やしがらみみたいなものを取り除いてくれたのも、ゴジラだったのかなと思う。
だって、サムシング・グレイトならしょうがない。
そもそもの1954年の初代の『ゴジラ』が、大戸島でシケが続くと「『ごじら』のせい」みたいな感じで、海に生娘一人だけ船に乗せて生贄に出していたそうで、今は神楽として風習が残ってるみたいな諸星大二郎先生的な流れだったので、最初の世界感踏襲してるし、そもそも最初の自殺のシーンから踏襲してるし、比較的シンプルな形で観ることの出来たタイプだと思います。
アイデンティティと容易い居場所
『コンビニ人間』を読んだ。
感想とは全然関係ないけど、Kindleで読んでいたら本の厚み具合がわからないので突然終わった気分。
本とKindleの違いは私にとってはここだな。
それはともかく。
コンビニでバイトしたこと有りますか?
学生時代夕方から夜まで4時間とかじゃなくて、もっとがっつりと。
私はあります。
もちろん夕方からせいぜい夜10時までというのから、
朝6時から昼過ぎまで。
あと朝8時から夕方まで。
店も年齢も勤続年数も環境も違いましたが、ふと思い出しました。
コンビニには「始まり」も「終わり」もありません。
ずっと続くコンビニに「参加」し、「離脱」するので、日常にガッチリ組み込まれると、オンラインゲームのように、「今どうなってるだろう」と考えてしまいます。
そして意外とお客さん含めメンバーは変わらないし、やることも大きくは変わらないので慣れてしまえば楽なのです。
でもちょっとしたトラブルあり、繁忙期あり。人事異動の時期なんかもあり。
長くいると居心地がいい。
業界が一緒ならだいたいすぐ仕事できるし。
まあ、だいたいの仕事って、そうですよね。
たまたまそれがコンビニだったということ。
そして向いている仕事がコンビニの仕事だったということ。
この物語のポイントは、「コンビニバイト」という職に対するイメージや価値観に左右される部分も大きいと思います。
いつも思うのですが、この職に対するヒエラルキー(個人差はあるだろうが)って、年収は関係ないですよね。で、考えると、なりにくさ、採用され無さ度合い、倍率?とかなのかなと。
「なりにくい=ありがたい」みたいな。
この本の主人公の女性は、多分日本ですごく生きづらいとおもいます。
でもちゃんと生きられる場所を自力で見つけられて、幸せな話だと思って読みました。
以前書いた『羊の木』じゃないですが、どんな人でも、場所があれば生きられると思います。
そうやって折り合いつけて、ちゃんと自分で自活できて迷惑かけないで、むしろ役に立って、やりがいも見いだせてるなんて、すごく賢くて客観性があり、スマートで素晴らしいと思います。
『朝日ともあろうものが』という本がありましたが
世間の 「朝日」のヒエラルキー有りきの話の本なわけです。
私は朝日新聞を購読していなかったし、そもそも「新聞記者」に対するイメージが漠然としていたので、ただの「グズグズな会社の話」と思って読みました。
同じように、世間の「コンビニバイト」のヒエラルキー有りきの本なわけです。
この本は、「ヒエラルキー有りき」と「ヒエラルキー知ってるけどどうでもいいじゃん」の話で、私は「どうでもいいじゃん」側なので、攻防戦が面白かったです。
まあ、何にでも言えるのですが、「専業主婦」VS「兼業?主婦」とか、「実力派」VS「キャリア」とか。
雇ってる側に美味しいだけなんだから、仲良くやろうぜくらいにしか思いませんが、アイデンティティも含むと難しいですよね。
そんな中、主人公の女性は、コンビニバイトのヒエラルキーとか地位向上とかそんなんどうだって良くって、宗教的にすら感じる信心度でコンビニに日常と人生とを満たしていく具合が、一部サラリーマンの顔と、何か(宗教とか歌手とか)を熱狂的に信じている方の顔と重なり、「ちょっとうらやましいな」と思いました。
一方、無職のヒモは、ガンガンにそのヒエラルキーを感じ、がんじがらめにされていて
、なんとかそれを打破しようと、言葉巧み(と本人は思っている)に自分のヒエラルキーの低さや、それに付随するカタルシスを打破しようと奮闘する。
この男性の外見を、私はなんとなく、水木しげるさんが描く前歯の大きいいわゆる『日本人男性』が、鼻息を「フォーン!!」と出している絵を思い出しました。
この主人公は自分で考える。
男性が自身の中の、いわば身勝手なヒエラルキー(本人はその大切な『ヒエラルキー』は『世の常識』と同等という感じですが)をグイグイ押し付けてくる感じに対し、少なくとも「自分のそれとは違う」とわかっている。ぶれないし流されない。
まあそういう女性がはなっから主人公な話なんですけれども。
世の中に信じれるものって、そんなに無いです。
私には「絶対死ぬ」くらいしか無い。
そんな中、信じれるものに受け入れてもらえるって、そりゃここから出たくないよなと思いました。
世間的には、その信じれるものは「結婚」とか「家庭」とかあるのでしょうが、その中に「コンビニ」があり、それを手に入れることができたわけですから、信じれるもの、自分がいるべき場所が見つかった、とても幸せな話だと思いました。
美意識と過去と未来
『マチネの終わりに』を読んだ。
ネタバレあり、ご注意ください。
あらすじとしては、天才と称されるクラシックギタリストと、婚約者のいるジャーナリストの女性の運命的な出会いから始まる物語。
評価が高いのは知っている。
でも、わたしは何だか困った顔をして読み終えた。
どう捉えれば良いのだろう。
誰に感情移入すれば良いのだろう。
最近誰にも感情移入できない本が増えている。
感情移入できないのはいい。
そういう本はそういう本で楽しみ方がある。
でも、感情移入できなくても面白い、読んでよかった等代替する感想が圧倒的にないと、なんだか困った顔で終わる。
まず、根本的に美意識が違ったと思う。
私は、「どっこい生きてる」みたいなものが好きだ。そこに圧倒的美を感じる。宗教的なものでもいい。もう抗えない感情の野生と理性が混沌とした中に、慈しみと愛おしさと美しさを感じる。
「主人公」の蒔野と洋子の容姿に対する重要度合いに、まず美意識の違いを感じた。
そして、容姿に恵まれた「主人公」達の、容姿に恵まれたから得られる特権について何も語られていないことに対しての、「他の問題に関しては深く考えるのに、なぜここにはつっこまないのか?」とか、それって米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で、こういう矛盾あったなとか、いや、言いたいことはわかるし、私なりに理解しているつもりだが、いろいろと思うところもあって、二人の関係が恒久的に続くほどの運命性を感じなかった。
未来が過去を変えるのはわかるし、そこにおいて、救われた人は多々いると思う。
私は生きていく中で、今生きている道が過去を変え、それに救われた経験がいくつかあるのでよく分かる。
でも、それは今を、懸命に生きた結果としてのご褒美だと思っている。
「懸命に」の部分が、この物語の「主人公」たちにおいては、多分に他者に委ねられている気がする。
「懸命に」は、自分自身も懸命に生きた分、価値観も大切なものも大きく変化し、そこでその変化した価値観に全身で挑んで身を委ねた結果、未来が過去を塗り替えたという結論に至るのだと考える。
別にもっと苦労しろと言う話でもない。
例えば、三谷さんは自分で「懸命に」(適切かどうかは別にして、必死さ具合として)未来を変えようとし、変えた。
それは決して褒められた話じゃないし、醜い感情だし、過去を美しく変えるものでもなかった。
でも、結局洋子に事情を話した。
それだって、彼女が常に自分のために行動していたとしても、「懸命に」生きていた。
もっと幸せな生き方、自分を「脇役」などと思わない生き方や考え方もあっただろうに、「懸命に」生きていた。
過去を改めて「つらい過去」と認識することだって、過去を変えたことになるし、「つらい過去」と改めて認識することによって、逆説的に救われることもある。
「主人公」達は恵まれすぎていて、自覚的に「懸命に」生きなければイージーモードで生きていける。
イージーモード具合に苛立つ「主人公」達のイージー具合は自覚されていなくて、自らハードモードに身を置く感じはわかるんだけど、自らハードモードに行けるってのは、人生イージーモードだったからっていうのは確認されていない。
すごくキレイな上澄みの水のたった一粒の砂の話を聞いているような気持ちになった。
うーん、批判じゃないんだな。美意識が違うとしか言いようがない。
蒔野と洋子はお似合いのカップルだと思う。
一緒になって欲しいと思う。
でも、全く憧れない。
美しいとも思わない。
私はひねくれているのかもしれないと思う。
でも、そのひねくれこそが私の過去も含めた今であり、いつかこの過去も、未来の出来事によって、美しい過去となることを祈る。
代田のアパートのこと
小暮荘物語を読んだ。
あらすじ
世田谷区代田あたりの古いアパート「小暮荘」の住人やら大家やら周囲の人の話。
短編7篇で構成されている。
感想
私は「柱の実り」(前田さんの話)と「ピース」(はるかちゃん)が泣いた。もう抗えないものがあるんだな。
でも、「黒い飲み物」(佐伯夫婦)はユニコーンの「おかしな二人」という曲がグルグル鳴って愛おしかったし、「心身」は現在進行中の悩みでもある。セックスがしたいんじゃない。セックスを通じて感じる「求められている」「必要とされている」というのを「セックス抜き」でセックスで感じたいのだ。
どうした私。落ち着こう。
「穴」は、もうねー、読んだ人と呑みながら話したい。個人差が出るだろうし、男と女じゃ感想も違うだろうし、女性ならどこまで女子大生に共感できるか。はけっこう幅があると思う。
「シンプリーヘブン」と「嘘の味」はじわじわくる。
並木みたいな人を好きになれたら幸せだろう。
なんだか最近並木のことばっかり考える。
羊の群れと多様性
『羊の木』という漫画を読んだ。
あらすじ
凶悪犯罪を犯し、罪を償った元受刑者たちを11人受け入れることになった海沿いの田舎の魚深市。
過疎対策もあるが、市長の熱い思いもあり、市民に一切知らせない極秘プロジェクトとして元受刑者たちは魚深市に移住する。
感想
物語の最後の方で、元受刑者たちは「居場所があれば俺達は生きられる」みたいなことを言うのですが、そもそも、罪を犯したのは本人だけのせいなのか、環境が違えばどういう人生だったのか。
本人たちは自分たちの「業」みたいなものをよくわかっていて、抗えないから罪を犯したのでしょうが、その「業」と折り合いをつけながらなんとか生きていきたい、社会とつながっていたいという、それも「業」なのかもしれないけれど、苦しいながら懸命に生きてる人間なんだと物語を読んで思い、そこには好意的な気持ちがあった。
しかしそのすぐ後に、「凶悪犯罪って殺人とか、被害者のいる話だしなあ」と思い、好意的な気持ちになってはいけないんじゃないかとも思った。
鬼子母神の話じゃないけど、被害者にも加害者にもなったことのない人なんていないんじゃないかな、とも思った。
私は、「自分だって状況が状況なら犯罪を犯してしまうんじゃないか」とニュースを見ながら思うけれど、「被害者にだってなりうる」と考えた時、「「結局人は死ぬしな」と常に思っている私は、被害者も加害者も一瞬フラットになった。
そんなことを考えていたのは仕事の帰りの電車の中だった。
電車が動き始めてすぐ、隣に座っていたスーツを着たおじさんが歌いだした。
「パーパラッパー走るよ電車プープルップー」×∞
私は「なかなかいい音程を保っているな。歌がうまい」と思った。
周りの人も、突然大声で歌い出したのでちょっとびっくりしたようだが、すぐに普通の空気になった。
ふと、魚深市よりもずっと閉じられた地元の街を思い出した。
地元では、このおじさんは異様な目で見られるに違いない。電車に乗る必要がある時は、必ず隣に母親なり父親なり付き添いが居て、小さくなって申し訳なさそうに寄り添っているだろう。番地までわかるほど、すぐにどこの誰かは知れ渡り、歌うおじさんの人生を知るだろう。
私はその街で、同じ言葉を持つ仲間を見つけることができなかった。
違う星に不時着してしまった宇宙人のようだった。
でも、東京に来て、嫌な思いもしたけれど、仲間を見つけて楽しく暮らしている。
どうして仲間を見つけられたのか。
それは東京の持つ「多様性」の一言に尽きると思う。
今、この電車の中で、一瞬判断時間はあったものの、歌うおじさんは害はないとわかればすぐに受け入れられた。
私はこの「多様性」に救われた一人だ。
魚深市は、元受刑者を受け入れることにより、この「多様性」を手に入れたのではないか。
それは清濁併せ持つから今のままでよかったのにという人もいるだろう。変化することで救われる人もいるだろう。
今同時に南方熊楠の本も読んでいるのだが、トーテミズムとシンクロできる気がする。
しかし私の頭ではまだそこまで追いつかない。
熊楠の爪の垢を煎じて飲みたい。