弾ける
先週は忙しかったけれど、一冊だけ読めました。
キョンキョンのエッセイ。
ちなみに、特典無しで買いました。
黄色いマンション 黒い猫【特典付き】 (Switch library)
- 作者: 小泉今日子,和田誠
- 出版社/メーカー: スイッチパブリッシング
- 発売日: 2016/04/15
- メディア: 単行本
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「キョンキョン」と何のためらいもなく言えるほどアイドル時代を知る年代ではなく、もうちょっと後の年代なので、「キョンキョン」と言うと「知らないくせにおこがましい」と勝手に思ってしまいます。
それはさておき。
芸能人、アイドルの中で「世間ずれ」は一つのジャンルとしてあると思うのです。
「電車乗ったことない」とか「バイトしてみたい」とか。
逆に「全然普通。皆と一緒だよ」もあります。
ママタレとか、出始めのタレントさん(最近男性に多い気がする)とか。
そんな中小泉今日子さんは、「芸能の仕事してる自分(アイドルとか女優とか、やっぱり特殊)と仕事以外(みんな同じように苦しんだり悩んだりしていること)の自分」というのがはっきりしてるというか一貫性があるというか、真逆だけどそう思うのです。
真逆だけど地続きなのが見える。
それはもう本人の資質なんだろうけれど、ちょっとすごいと思う。
親子関係だって、どうしてこう赦すのか。
甘えない生き方をどこで学んだのか。
早く大人になれたのはなぜなのか。
そんなことを思うと同時に、こうもおもうのです。
悲しい出来事を経験していない人なんていやしないんだとか。
きれいな生き方ってどんな生き方だろうとか。
これだけいろいろ自分の中に疑問を呈してくれた本は最近無いので、読んで良かったです。
こういう瞬間、本を読むことの大切さを思う。
誰かの頭のなかを覗かせてもらう。
そしてその人の哲学に触れ、私の中に新しい疑問が生まれ、新しい哲学を生み出す。
最後の新しい哲学は、ちゃんと私が考えたなら、私の哲学。
「私の哲学」が生まれる瞬間、私は他のどんな行為より興奮して弾ける。
裸では生きられない。では何を着る?
今渋谷でSAPEUR展をやっていて、行けずじまいで本屋に寄ったら写真集があった。
THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン
- 作者: 茶野邦雄
- 出版社/メーカー: オークラ出版
- 発売日: 2016/03/22
- メディア: 単行本
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SAPEURとは端的に言うと、「お洒落をすることで平和を願い、自由を美を愛することを表現する(宣言)」という感じだが、私が思うにもうちょっと重くて、「SAPEURになるということは、私は「こういう」思想を持った人間であると宣言するということである。「こういう」とはどういうことか。それは云々…」そんな「内面の思想や信念を一瞬で提示する方法」というのが私の認識だ。
昔の日本の「武士」は、そんな感じだったのかなと思う。
「先生」や「医師」「弁護士」等も、同じ印象だったのかもしれない。
「警察官」「僧侶」「消防士」等、制服や職業がSAPEURのような役割を持っていた時代は昨今の事件を見る限り、日本では終わったんだなと思った。
お洒落ばっかりする人もいるし、お洒落しない人もいるし、いろいろいるけれど、自分を表現するツールとしてのお洒落の中に、「信念と生き様」としてのお洒落って、覚悟が見えて、感動するもんだなと思った。
外見と内面の一致を意図的にするって、すごくない?
つかめないものをつかむ
久しぶりに本が読めた。
朝早く起きたので、いっきに読んでしまった。
すてきだね
ご多分に漏れず、「丁寧な暮らし」「雑貨」「シンプルに生きる」などのキーワードが好きです。
正確には、そのキーワードまわりの雰囲気が好きです。
柔らかくて、淡いピンクとかミントグリーンとかの色で、すみれとかクリスマスローズとか咲いてそうな場所。
それが私の中の「丁寧な暮らし」「雑貨」「シンプルに生きる」。
そして、そんな女子の多そうな場所のどまんなかにいる男性が、松浦弥太郎さんのイメージです。
『すてきなあなたに』を中学生のお小遣いで買う夢見る少女だった私は、もちろん松浦さんの本も読みます。
松浦弥太郎さんは、「暮しの手帖」という雑誌の元編集長で、「すてきなあなたに」は「暮しの手帖」の中に連載されています。
今回は、こちらの『いつもの毎日。ー衣食住と仕事』という本を図書館で見つけたので、早速読んでみました。
やっぱりとっても素敵です。
こんな男性はどこにいるのでしょう。
暮らしの手帖社にいるのでしょうか。
タオルはホテル仕様のものが良いとか、そうですよねー。
家具は揃えて作ってもらうと部屋の雰囲気がまとまるとか、そうですよねー。
腕時計はダイヤがギラギラついてるのはちょっといただけないから、産まれた年のロレックスをつけているとか、シンプルなのにオシャレでカッコイイですよねー。
私、もう中学生じゃないんだなと、気付いてしまいました。
頭の片隅で、声がするのです。
「年収いくらくらいの人の生活なんだろう」と。
「嫁と娘と住んでいる家とは、ローンはもう終わっているのか。都内か。生活費月いくらくらいならホテル仕様のタオルに買い換えようと思い切れるのか。」などなど。
そしてロレックス。
いや、私でも頑張れば手の届く価格のものも、もしかしたらあるのかもしれません。
でも、そのお金を腕時計に回そうと思える日は私に来るのでしょうか。
中学生の時あこがれた、都会的でシンプルでオシャレな生活。
今、ロレックス持ってないし賃貸だし家具はネットかIKEAです。
でも部屋は気に入ってるし、家具も色みを揃えているからまとまりあるし、毎日掃除して、自炊して、なんだかんだと楽しく暮らしています。
松浦さんのような暮らしは、私は一生できないかもしれないけれど、日々の生活を楽しむという点では近づけたんじゃないかと思います。
それはやっぱり『すてきなあなたに』があったから。
ネットで買った本棚には、『すてきなあなたに』がちゃんとあります。
松浦さんが我が家に来たら、きっと「すてきだね」と言ってくれるはず。
どうかな。どうだろ。
益々のご繁栄を。
はてなのますだのことを最近知って、昨日がっつり見た。
おもしろい。
2chを知った時のよう。
2chを知った時、私は悔しがった。
職場のあのもやもやを、こんなに的確に理解してくれる仲間がここにいたとあの時知っていたら…!!!
ますだは仲間ではないが、頭をフル回転させてくれるダイアリーに出会うことがある。
頭をフル回転=ドーパミン?アドレナリン?とにかく快感物質が出まくる私には、最高のご褒美だ。
でも、このご褒美から出てくる私の考えは、ココで書くものなのか。
コメントとして書くものなのか。
はたまた違うのか。
ルールがあるのか。
上京した時を思い出す。
23区のヒエラルキー
学閥のヒエラルキー
エスカレーターの立ち位置
電車内の振る舞い
勝ち組と負け組
それにくわえて言語の問題がある。
東京の人は、自分に伝わらない言葉(日本において一般的に「方言」と呼ばれる言語)のほうが間違っているというスタンスが基本(それを言葉に出す、出さないにかかわらず)なので、前者だと突然注意される、後者だとクスクス(笑)されるので、東京の人にわかるように言い換える。
イントネーションにもうるさい。
前後の文と状況で当たり前のように分類していた同音異義語も、イントネーションで判別できるよう指導される。
言語一つとっても、同じ日本語なのにいろいろと注意を受ける。
あと、言語習得の際、男性からの習得か、女性からの習得かで印象が変わる。
全国的にどうかは知らないが、地元には方言の中で「男性のみが使う方言」と「女性のみが使う方言」がある。
「男性語」「女性語」とする。
地元の方言社会において、私は圧倒的な「女性語」利用者であった。
男性は父親のみという家庭環境がそうさせたのであろう。
周囲の扱いも、「女性」としての扱いだった。
進学のため東京に出た際、東京語をTVや学校で学んだ。
東京のTVは司会も出演者も男性が多くて、関西の方言も多くて、雑多な「男性語」を聴き続けた。学校では、やたら地方コンプレックスに関するところ(イントネーションや服装、髪を染めてるかとかピアスの穴の有無まで)を指摘して馬鹿にしてくる輩(男性)が現れ、その人の言葉責めを聴き続けた結果、方言では「女性語」東京語では「男性語」という自分が出来上がり、周囲の扱いがぜんぜん違うという事態に直面した。
もちろん自分の中で「男性語」「女性語」の区別はない。
どちらも自然に習得したものだからだ。
しかし「男性語」「女性語」それだけで周囲の扱いが違うというのに気付いた。
中身も服装も髪の色も発言の内容も何もかも一緒なのに、言語の性別によって「大和撫子」(地元)と「ボーイッシュ」(東京)とを行き来する。
(※「大和撫子」「ボーイッシュ」…..どっちもそんないいものではなかったけれど、対比として)
そういうとき、私は外国の人、もしくはハーフの人、つまりは分りやすく日本の文化圏ではないと、外見から分かる人が羨ましい。
私がわかりやすい外国の方の外見なら、イントネーションの違いにも寛容だろうし、和製英語を英語で答えたら、「へえ、英語ではこう言うんだ」と感心されただろうと妄想する。
東京に住んでいる方が長くなりつつあるので、けっこう忘れていたけれど、ますだはこういう気持ちを思い起こさせる。
人の気持ちに触れたようで、なんかわからん汁が出よる。
あのときの、保護膜もATフィールドもアストロンも無かった私がいるようで、見てしまう。
今は敬語を勉強中である。
地元には地元特有の、「方言の敬語」というものがある。
例えば
①「そうですね」→「そがんです(もん)ね」
②「〇〇でよろしいでしょうか」→「〇〇でよかですか」
である。
大変である。
地元語(母国語)、東京語(第二外国語)、東京の敬語(第三外国語)である。
そもそも地元語に「男性語」「女性語」がある上での話である。
そこにきて、関東出身の上司が「イントネーションが違う」「間違った日本語」「汚い言葉」「未来のある子どもたちに聞かせたくない」とまで言われる。
ここに関しては、更に上の上司が偶然聞いていて、「間違った日本語」「汚い言葉」云々の叱責に対し、「方言やイントネーションの違いが美しくないという感情はどうなのか」と、随分と注意をしたようであんまり言われなくなったけれど、私としては結局萎縮してしまい、やたらと丁寧語と尊敬語を使うようになった。
「方言」って、「言語」って、「コミュニケーションツール」としての役割以上のこととしての「日本語」って何なんだろう。
端的に表しても、説得力がないな。
伝わるのかな。
きっと、言語習得の上手い人や、耳のいい人、言語習得のコツを掴んでいる人には容易いことかもしれないが、私にはまだまだ難しい。
あと、地元語(母国語)でしか表しようのない感情がある。
東京生活も長くなり、地元語(母国語)を使わない日々が年単位になると、言語による違和感は「いずれ過ぎ去る感情」として処理しながら生活してく。
しかし、ますだはそこを揺さぶる。
「おい、その感情を見つめろ。燃やせ。ぶちまけろ。こちとらぶちまけてるぞ」
と言ってくる。
私の中の「荒ぶる神」が暴れだす。
私、馬鹿なのかな
年末になんとなく録画していた映画「ガール」を見た。
笑って泣けて、女子力上がるみたいなキャッチフレーズで、特に何の思い入れもなく見た。
笑って泣けた。
女子力上がるかわからないけれど、「女でいいか」と思い、ちょっとだけ前向きな気分になった。
で、超映画批評で100点満点中5点と知った。
私は、100点とまではいかないけれど、70点くらいだ。
私の心を動かしてくれたし、最後は前向きな気分にまでさせてくれた。
超映画批評の批判はしない。
私の感想だけ書きます。
香里奈演じる「由紀子」は29歳になり、自分の「かわいい系ファッション」と「29歳」という世間の印象の間で揺れる。
年齢は地続きに続く。
22も25も30も、結婚や出産がなければプライベートや服装だって変わらない。
でも「30じゃちょっと」とか服装と年齢を絡めて言われるようになる。
由紀子みたいなタイプにとって、ファッションとアイデンティティは結びついている。
だからこそ円形脱毛症になる。
だからこそ、あの彼氏がかけがえのない存在になるのだ。
スーツって便利だなと思って以来、仕事用の地味な服を別に用意するようになったけれど、女性は自由度が高い分、批判されやすい気がする。でも、むしろ華やかさを求められてる職場もあるし、正直「衣装代出せよ」とおもうけれども、「好きでやってるんでしょ」と片付けられてる部分も多い。そして、それが当たり前と思っている女子も多い。
次に聖子(麻生久美子)。バリキャリ、夫あり、子無し。
超映画批評で酷評されていたけれど、男性部下と、大人同士、仕事仲間として向きあおうとしたけれどそれができず、相手が幼稚で姑息な手段に出たから、これは会社の損益にもなるし、同じレベルにまで降りて対決しないと相手は納得しないだろうということでやった結果だと思う。
でも、本当はそんなことがしたいんじゃない。
それぞれの能力を発揮してもらって、仕事を成功させたいだけだ。
むしろ、あんな汚れ役やって、偉いなあくらいに思っていたのに。
男性部下が男幹部に根回しして、あれだけ立ち回れるって、聖子も「女」になって立てて利用する方法もあったはず。でもそれはしなかった。それは(仕事の内容を見るに)開発する地域の人のためにならないから。ひいては会社のためにならないから。
すごく冷静で仕事ができて、度胸も決断力もあって、ユーモアもある。
安易じゃない(「女」になってたててその場しのぎをしない)仕事ができて、それを許される環境って、むしろ羨ましすぎて嫉妬すらする。
次は容子(吉瀬美智子)。年齢で、好きな人を「好きだ」と思うことすら自ら禁止している感じは、女性特有かもしれない。
だって、芸能人でも、「私、若い子が好きです、20代限定」とか言う30代以上の女性タレント見たことありますか?男性なら芸人さんとか結構いると思うけれど、女性は、公言している人一人も居ないと思う。
そして女性が多い職場。上司は男性多め。ありがち。もう男性社員入ったら、出来る出来ないにかかわらず上に行けるシステムな組織。
女同士の偏見、女性としての偏見、家族のプレッシャー、自分の意見じゃないところで、それらの問題を考慮しながら、好きな人すら好きと思っちゃいけないと思うような状況に追い込まれているわけです。
それを打破するのは、やっぱり男というなんともな話なのですが、本人は喜んでいたので良しとしましょう。
最後はシングルマザー孝子(板谷由夏)。父親役も自分で補ってしまおうと考えるほどの努力家であり、それゆえにまわりの優しさを見失いがちだ。
シングルマサーは難しいと思う。
救いの手は、弱みに付け込まれるんじゃないかと身構えてしまうし、理想の父親像を自分が引き受けて無理をしてしまう。
それは相手にもそれを強いることかもしれない。
相手が大切すぎて空気を読めてしまう、気を使えるからこそ、傷つけてしまう母子家庭というものを描いていると思う。
そうか、全体として、「失う」「変わる」ことをテーマにしているのか。
女性の人生は、まだまだ男次第とも言える。
結婚でも姓が変わるのはまだまだ女のほう。
子どものいるなしで、影響があるのは女がほとんどだ。
それだけじゃなく、年齢も、外見も、中学生くらいから評価の連続である。
その、他人様のつけた評価の下には、「私」がいる。
「俺」むき出しで生きてきた男様にはわからないかもしれないが。
その「私」が、ぼろぼろぼろと出たのが、この映画なのだと思う。
出ざるを得なかった状況。
アイデンティティを否定された「由紀子」
仕事関係なく性別で全否定された「聖子」
恋愛と年齢の板ばさみになった「容子」
父親役と母親役をこなそうとした「孝子」
みんな、もう今の自分、ってか存在自体否定されちゃってる。
ばかみたいとわかっていつつ、勝負してみたり、ボール見えなくなるまでキャッチボールしてみたり、足掻いて足掻いて。
でもさ、そのきらめきは、ばかみたいだけれど、素敵なことよね。と、思ったけれど。
5点かー。