普通の人

普通の人の日常

羊の群れと多様性

『羊の木』という漫画を読んだ。

あらすじ

 凶悪犯罪を犯し、罪を償った元受刑者たちを11人受け入れることになった海沿いの田舎の魚深市。

過疎対策もあるが、市長の熱い思いもあり、市民に一切知らせない極秘プロジェクトとして元受刑者たちは魚深市に移住する。

 

感想

物語の最後の方で、元受刑者たちは「居場所があれば俺達は生きられる」みたいなことを言うのですが、そもそも、罪を犯したのは本人だけのせいなのか、環境が違えばどういう人生だったのか。

本人たちは自分たちの「業」みたいなものをよくわかっていて、抗えないから罪を犯したのでしょうが、その「業」と折り合いをつけながらなんとか生きていきたい、社会とつながっていたいという、それも「業」なのかもしれないけれど、苦しいながら懸命に生きてる人間なんだと物語を読んで思い、そこには好意的な気持ちがあった。

しかしそのすぐ後に、「凶悪犯罪って殺人とか、被害者のいる話だしなあ」と思い、好意的な気持ちになってはいけないんじゃないかとも思った。

鬼子母神の話じゃないけど、被害者にも加害者にもなったことのない人なんていないんじゃないかな、とも思った。

私は、「自分だって状況が状況なら犯罪を犯してしまうんじゃないか」とニュースを見ながら思うけれど、「被害者にだってなりうる」と考えた時、「「結局人は死ぬしな」と常に思っている私は、被害者も加害者も一瞬フラットになった。

 

そんなことを考えていたのは仕事の帰りの電車の中だった。

電車が動き始めてすぐ、隣に座っていたスーツを着たおじさんが歌いだした。

「パーパラッパー走るよ電車プープルップー」×∞

私は「なかなかいい音程を保っているな。歌がうまい」と思った。

周りの人も、突然大声で歌い出したのでちょっとびっくりしたようだが、すぐに普通の空気になった。

 

ふと、魚深市よりもずっと閉じられた地元の街を思い出した。

地元では、このおじさんは異様な目で見られるに違いない。電車に乗る必要がある時は、必ず隣に母親なり父親なり付き添いが居て、小さくなって申し訳なさそうに寄り添っているだろう。番地までわかるほど、すぐにどこの誰かは知れ渡り、歌うおじさんの人生を知るだろう。

 

私はその街で、同じ言葉を持つ仲間を見つけることができなかった。

違う星に不時着してしまった宇宙人のようだった。

でも、東京に来て、嫌な思いもしたけれど、仲間を見つけて楽しく暮らしている。

どうして仲間を見つけられたのか。

それは東京の持つ「多様性」の一言に尽きると思う。

今、この電車の中で、一瞬判断時間はあったものの、歌うおじさんは害はないとわかればすぐに受け入れられた。

私はこの「多様性」に救われた一人だ。

魚深市は、元受刑者を受け入れることにより、この「多様性」を手に入れたのではないか。

それは清濁併せ持つから今のままでよかったのにという人もいるだろう。変化することで救われる人もいるだろう。

今同時に南方熊楠の本も読んでいるのだが、トーテミズムとシンクロできる気がする。

しかし私の頭ではまだそこまで追いつかない。

熊楠の爪の垢を煎じて飲みたい。

世界報道写真展にて

毎年どこかの日本の地で、見ている世界報道写真展

今年は新しくなった恵比寿の東京都写真美術館にて見てきました。

 

私は普段社会情勢とか世界の出来事とか、あまり関係なく生きています。

だから、強いメッセージは持ってないです。

でも、年に一度くらいはちゃんと考えようと、毎年足を運んでいます。

 

「わからない」ことを「わからない」まま生活する難しさと、効果を考えながら生きています。

 

この不文律の感情模様。

 

弾ける

 先週は忙しかったけれど、一冊だけ読めました。

キョンキョンのエッセイ。

ちなみに、特典無しで買いました。

黄色いマンション 黒い猫【特典付き】 (Switch library)

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 「キョンキョン」と何のためらいもなく言えるほどアイドル時代を知る年代ではなく、もうちょっと後の年代なので、「キョンキョン」と言うと「知らないくせにおこがましい」と勝手に思ってしまいます。

 

それはさておき。

 

芸能人、アイドルの中で「世間ずれ」は一つのジャンルとしてあると思うのです。

「電車乗ったことない」とか「バイトしてみたい」とか。

 

逆に「全然普通。皆と一緒だよ」もあります。

ママタレとか、出始めのタレントさん(最近男性に多い気がする)とか。

 

そんな中小泉今日子さんは、「芸能の仕事してる自分(アイドルとか女優とか、やっぱり特殊)と仕事以外(みんな同じように苦しんだり悩んだりしていること)の自分」というのがはっきりしてるというか一貫性があるというか、真逆だけどそう思うのです。

真逆だけど地続きなのが見える。

それはもう本人の資質なんだろうけれど、ちょっとすごいと思う。

 

親子関係だって、どうしてこう赦すのか。

甘えない生き方をどこで学んだのか。

早く大人になれたのはなぜなのか。

 

そんなことを思うと同時に、こうもおもうのです。

悲しい出来事を経験していない人なんていやしないんだとか。

きれいな生き方ってどんな生き方だろうとか。

 

これだけいろいろ自分の中に疑問を呈してくれた本は最近無いので、読んで良かったです。

こういう瞬間、本を読むことの大切さを思う。

誰かの頭のなかを覗かせてもらう。

そしてその人の哲学に触れ、私の中に新しい疑問が生まれ、新しい哲学を生み出す。

最後の新しい哲学は、ちゃんと私が考えたなら、私の哲学。

「私の哲学」が生まれる瞬間、私は他のどんな行為より興奮して弾ける。

 

裸では生きられない。では何を着る?

今渋谷でSAPEUR展をやっていて、行けずじまいで本屋に寄ったら写真集があった。

 

THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン

THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン

 

 SAPEURとは端的に言うと、「お洒落をすることで平和を願い、自由を美を愛することを表現する(宣言)」という感じだが、私が思うにもうちょっと重くて、「SAPEURになるということは、私は「こういう」思想を持った人間であると宣言するということである。「こういう」とはどういうことか。それは云々…」そんな「内面の思想や信念を一瞬で提示する方法」というのが私の認識だ。

 

昔の日本の「武士」は、そんな感じだったのかなと思う。

「先生」や「医師」「弁護士」等も、同じ印象だったのかもしれない。

「警察官」「僧侶」「消防士」等、制服や職業がSAPEURのような役割を持っていた時代は昨今の事件を見る限り、日本では終わったんだなと思った。

 

お洒落ばっかりする人もいるし、お洒落しない人もいるし、いろいろいるけれど、自分を表現するツールとしてのお洒落の中に、「信念と生き様」としてのお洒落って、覚悟が見えて、感動するもんだなと思った。

 

外見と内面の一致を意図的にするって、すごくない?

 

つかめないものをつかむ

久しぶりに本が読めた。

朝早く起きたので、いっきに読んでしまった。

山田詠美著『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』

 

 

 
面白かった。
いやぁ、面白かった。
 
あらすじ
 
子連れ再婚同士の、美しい澄川家の話。
 
美しいママ。
ママの連れ子の長男澄生。
女真澄。
 
飄々としたパパ。
パパの連れ子の次男創太。
 
そしてこれから生まれてくる次女、千恵。
 
長男澄生の突然の死を中心に、「家族」と「血」そして「死」という逃れられない事柄を、それぞれの目線から語っている。
 
 
 
改めて言う。
面白かった。
 
※ここからほぼ山田詠美さんの感想になります。
 
 
十代になった時、洗礼のように山田詠美さんの本を読み始め、途中エッセイのみになり、久しぶりに物語を読んだ。
一貫して「愛」について書かれているが、その「愛」は登場人物のどの人にも注がれている気がする。そして、登場人物のどの人も「愛」を持っているんだなあと思う。
 
「愛」なんて、自分勝手で独りよがりで、万能薬みたいな扱いされる時があるけど、それはたまたまその「愛」という薬がバッチリ合って効いた人だけで、合わなかったり、無理やり飲まされたり、「愛」のとばっちりを受けた人は、「愛」は、本当に、大変。
 
そんな大変なほうの愛も書かれているから、読んでいると「人間って愛おしいなあ」と思う。
 
ええっと、本の感想…。
 
「家族」「死」「血」。
 
ちょっと、感想言えない。
 
もう登場人物が親友みたいな気持ちになっちゃって、誰かがなにか言っても、「いろいろあったんだよ」と言って、もうあとはどんな決断しても応援するよみたいな心境になっちゃってる。
 
そう、登場人物を友達や親友にしてしまうのが、毎回凄いなあとおもう。
私がハマっているだけだとしても、一人でも「リアル」になっちゃうってすごくない?
 
あともう一つ。強烈に思ったのは、「美しいことは善」「美しい物を見て、美しいと思うことは当たり前」という前提の上で成り立っているということ。
 
「美しくなろう」と応援されることは、こちらの希望にかかわらず世の中で提案され続けているけれど、「これ、美しくていいですよね。とくにここ、このライン、この色使い、たまらない。」という具体的な提案をあんまり見たことがない。
あんまり言うと「オタク」と言われて別分類される気がする。
 
多分、何を美しいと思うかとはとても個人的だから。
 
山田詠美さんは、その個人的な美意識の部分を惜しげも無く出す。
そして、その個人的な美意識の部分に触れて、「愛おしいなあ」と思う。
 
美しさについては、また今度。
 

すてきだね

 ご多分に漏れず、「丁寧な暮らし」「雑貨」「シンプルに生きる」などのキーワードが好きです。

正確には、そのキーワードまわりの雰囲気が好きです。

柔らかくて、淡いピンクとかミントグリーンとかの色で、すみれとかクリスマスローズとか咲いてそうな場所。

それが私の中の「丁寧な暮らし」「雑貨」「シンプルに生きる」。

 

そして、そんな女子の多そうな場所のどまんなかにいる男性が、松浦弥太郎さんのイメージです。

 

『すてきなあなたに』を中学生のお小遣いで買う夢見る少女だった私は、もちろん松浦さんの本も読みます。

 

松浦弥太郎さんは、「暮しの手帖」という雑誌の元編集長で、「すてきなあなたに」は「暮しの手帖」の中に連載されています。

 

すてきなあなたに

すてきなあなたに

 

 

今回は、こちらの『いつもの毎日。ー衣食住と仕事』という本を図書館で見つけたので、早速読んでみました。

 

 

やっぱりとっても素敵です。

こんな男性はどこにいるのでしょう。

暮らしの手帖社にいるのでしょうか。

 

タオルはホテル仕様のものが良いとか、そうですよねー。

家具は揃えて作ってもらうと部屋の雰囲気がまとまるとか、そうですよねー。

腕時計はダイヤがギラギラついてるのはちょっといただけないから、産まれた年のロレックスをつけているとか、シンプルなのにオシャレでカッコイイですよねー。

 

私、もう中学生じゃないんだなと、気付いてしまいました。

頭の片隅で、声がするのです。

「年収いくらくらいの人の生活なんだろう」と。

「嫁と娘と住んでいる家とは、ローンはもう終わっているのか。都内か。生活費月いくらくらいならホテル仕様のタオルに買い換えようと思い切れるのか。」などなど。

 

そしてロレックス。

いや、私でも頑張れば手の届く価格のものも、もしかしたらあるのかもしれません。

でも、そのお金を腕時計に回そうと思える日は私に来るのでしょうか。

 

中学生の時あこがれた、都会的でシンプルでオシャレな生活。

 

今、ロレックス持ってないし賃貸だし家具はネットかIKEAです。

でも部屋は気に入ってるし、家具も色みを揃えているからまとまりあるし、毎日掃除して、自炊して、なんだかんだと楽しく暮らしています。

 

松浦さんのような暮らしは、私は一生できないかもしれないけれど、日々の生活を楽しむという点では近づけたんじゃないかと思います。

 

それはやっぱり『すてきなあなたに』があったから。

 

ネットで買った本棚には、『すてきなあなたに』がちゃんとあります。

松浦さんが我が家に来たら、きっと「すてきだね」と言ってくれるはず。

 

どうかな。どうだろ。

 

 

 

益々のご繁栄を。

はてなのますだのことを最近知って、昨日がっつり見た。

 

おもしろい。

 

2chを知った時のよう。

 

2chを知った時、私は悔しがった。

職場のあのもやもやを、こんなに的確に理解してくれる仲間がここにいたとあの時知っていたら…!!!

 

ますだは仲間ではないが、頭をフル回転させてくれるダイアリーに出会うことがある。

頭をフル回転=ドーパミン?アドレナリン?とにかく快感物質が出まくる私には、最高のご褒美だ。

 

でも、このご褒美から出てくる私の考えは、ココで書くものなのか。

コメントとして書くものなのか。

はたまた違うのか。

 

ルールがあるのか。

 

上京した時を思い出す。

 

23区のヒエラルキー

学閥のヒエラルキー

エスカレーターの立ち位置

電車内の振る舞い

勝ち組と負け組

 

それにくわえて言語の問題がある。

東京の人は、自分に伝わらない言葉(日本において一般的に「方言」と呼ばれる言語)のほうが間違っているというスタンスが基本(それを言葉に出す、出さないにかかわらず)なので、前者だと突然注意される、後者だとクスクス(笑)されるので、東京の人にわかるように言い換える。

イントネーションにもうるさい。

前後の文と状況で当たり前のように分類していた同音異義語も、イントネーションで判別できるよう指導される。 

言語一つとっても、同じ日本語なのにいろいろと注意を受ける。

あと、言語習得の際、男性からの習得か、女性からの習得かで印象が変わる。

 

全国的にどうかは知らないが、地元には方言の中で「男性のみが使う方言」と「女性のみが使う方言」がある。

「男性語」「女性語」とする。

地元の方言社会において、私は圧倒的な「女性語」利用者であった。

男性は父親のみという家庭環境がそうさせたのであろう。

周囲の扱いも、「女性」としての扱いだった。

 

進学のため東京に出た際、東京語をTVや学校で学んだ。

東京のTVは司会も出演者も男性が多くて、関西の方言も多くて、雑多な「男性語」を聴き続けた。学校では、やたら地方コンプレックスに関するところ(イントネーションや服装、髪を染めてるかとかピアスの穴の有無まで)を指摘して馬鹿にしてくる輩(男性)が現れ、その人の言葉責めを聴き続けた結果、方言では「女性語」東京語では「男性語」という自分が出来上がり、周囲の扱いがぜんぜん違うという事態に直面した。

 

もちろん自分の中で「男性語」「女性語」の区別はない。

どちらも自然に習得したものだからだ。

 

しかし「男性語」「女性語」それだけで周囲の扱いが違うというのに気付いた。

中身も服装も髪の色も発言の内容も何もかも一緒なのに、言語の性別によって「大和撫子」(地元)と「ボーイッシュ」(東京)とを行き来する。

(※「大和撫子」「ボーイッシュ」…..どっちもそんないいものではなかったけれど、対比として)

 

そういうとき、私は外国の人、もしくはハーフの人、つまりは分りやすく日本の文化圏ではないと、外見から分かる人が羨ましい。

 

私がわかりやすい外国の方の外見なら、イントネーションの違いにも寛容だろうし、和製英語を英語で答えたら、「へえ、英語ではこう言うんだ」と感心されただろうと妄想する。

 

東京に住んでいる方が長くなりつつあるので、けっこう忘れていたけれど、ますだはこういう気持ちを思い起こさせる。

 

 

人の気持ちに触れたようで、なんかわからん汁が出よる。

あのときの、保護膜もATフィールドもアストロンも無かった私がいるようで、見てしまう。

 

閑話休題

 

今は敬語を勉強中である。

地元には地元特有の、「方言の敬語」というものがある。

例えば

①「そうですね」→「そがんです(もん)ね」

②「〇〇でよろしいでしょうか」→「〇〇でよかですか」

である。

 

大変である。

 

地元語(母国語)、東京語(第二外国語)、東京の敬語(第三外国語)である。

そもそも地元語に「男性語」「女性語」がある上での話である。

そこにきて、関東出身の上司が「イントネーションが違う」「間違った日本語」「汚い言葉」「未来のある子どもたちに聞かせたくない」とまで言われる。

ここに関しては、更に上の上司が偶然聞いていて、「間違った日本語」「汚い言葉」云々の叱責に対し、「方言やイントネーションの違いが美しくないという感情はどうなのか」と、随分と注意をしたようであんまり言われなくなったけれど、私としては結局萎縮してしまい、やたらと丁寧語と尊敬語を使うようになった。

 

「方言」って、「言語」って、「コミュニケーションツール」としての役割以上のこととしての「日本語」って何なんだろう。

 

 端的に表しても、説得力がないな。

伝わるのかな。

きっと、言語習得の上手い人や、耳のいい人、言語習得のコツを掴んでいる人には容易いことかもしれないが、私にはまだまだ難しい。

 

あと、地元語(母国語)でしか表しようのない感情がある。

 

東京生活も長くなり、地元語(母国語)を使わない日々が年単位になると、言語による違和感は「いずれ過ぎ去る感情」として処理しながら生活してく。

しかし、ますだはそこを揺さぶる。

「おい、その感情を見つめろ。燃やせ。ぶちまけろ。こちとらぶちまけてるぞ」

と言ってくる。

 

私の中の「荒ぶる神」が暴れだす。