益々のご繁栄を。
はてなのますだのことを最近知って、昨日がっつり見た。
おもしろい。
2chを知った時のよう。
2chを知った時、私は悔しがった。
職場のあのもやもやを、こんなに的確に理解してくれる仲間がここにいたとあの時知っていたら…!!!
ますだは仲間ではないが、頭をフル回転させてくれるダイアリーに出会うことがある。
頭をフル回転=ドーパミン?アドレナリン?とにかく快感物質が出まくる私には、最高のご褒美だ。
でも、このご褒美から出てくる私の考えは、ココで書くものなのか。
コメントとして書くものなのか。
はたまた違うのか。
ルールがあるのか。
上京した時を思い出す。
23区のヒエラルキー
学閥のヒエラルキー
エスカレーターの立ち位置
電車内の振る舞い
勝ち組と負け組
それにくわえて言語の問題がある。
東京の人は、自分に伝わらない言葉(日本において一般的に「方言」と呼ばれる言語)のほうが間違っているというスタンスが基本(それを言葉に出す、出さないにかかわらず)なので、前者だと突然注意される、後者だとクスクス(笑)されるので、東京の人にわかるように言い換える。
イントネーションにもうるさい。
前後の文と状況で当たり前のように分類していた同音異義語も、イントネーションで判別できるよう指導される。
言語一つとっても、同じ日本語なのにいろいろと注意を受ける。
あと、言語習得の際、男性からの習得か、女性からの習得かで印象が変わる。
全国的にどうかは知らないが、地元には方言の中で「男性のみが使う方言」と「女性のみが使う方言」がある。
「男性語」「女性語」とする。
地元の方言社会において、私は圧倒的な「女性語」利用者であった。
男性は父親のみという家庭環境がそうさせたのであろう。
周囲の扱いも、「女性」としての扱いだった。
進学のため東京に出た際、東京語をTVや学校で学んだ。
東京のTVは司会も出演者も男性が多くて、関西の方言も多くて、雑多な「男性語」を聴き続けた。学校では、やたら地方コンプレックスに関するところ(イントネーションや服装、髪を染めてるかとかピアスの穴の有無まで)を指摘して馬鹿にしてくる輩(男性)が現れ、その人の言葉責めを聴き続けた結果、方言では「女性語」東京語では「男性語」という自分が出来上がり、周囲の扱いがぜんぜん違うという事態に直面した。
もちろん自分の中で「男性語」「女性語」の区別はない。
どちらも自然に習得したものだからだ。
しかし「男性語」「女性語」それだけで周囲の扱いが違うというのに気付いた。
中身も服装も髪の色も発言の内容も何もかも一緒なのに、言語の性別によって「大和撫子」(地元)と「ボーイッシュ」(東京)とを行き来する。
(※「大和撫子」「ボーイッシュ」…..どっちもそんないいものではなかったけれど、対比として)
そういうとき、私は外国の人、もしくはハーフの人、つまりは分りやすく日本の文化圏ではないと、外見から分かる人が羨ましい。
私がわかりやすい外国の方の外見なら、イントネーションの違いにも寛容だろうし、和製英語を英語で答えたら、「へえ、英語ではこう言うんだ」と感心されただろうと妄想する。
東京に住んでいる方が長くなりつつあるので、けっこう忘れていたけれど、ますだはこういう気持ちを思い起こさせる。
人の気持ちに触れたようで、なんかわからん汁が出よる。
あのときの、保護膜もATフィールドもアストロンも無かった私がいるようで、見てしまう。
今は敬語を勉強中である。
地元には地元特有の、「方言の敬語」というものがある。
例えば
①「そうですね」→「そがんです(もん)ね」
②「〇〇でよろしいでしょうか」→「〇〇でよかですか」
である。
大変である。
地元語(母国語)、東京語(第二外国語)、東京の敬語(第三外国語)である。
そもそも地元語に「男性語」「女性語」がある上での話である。
そこにきて、関東出身の上司が「イントネーションが違う」「間違った日本語」「汚い言葉」「未来のある子どもたちに聞かせたくない」とまで言われる。
ここに関しては、更に上の上司が偶然聞いていて、「間違った日本語」「汚い言葉」云々の叱責に対し、「方言やイントネーションの違いが美しくないという感情はどうなのか」と、随分と注意をしたようであんまり言われなくなったけれど、私としては結局萎縮してしまい、やたらと丁寧語と尊敬語を使うようになった。
「方言」って、「言語」って、「コミュニケーションツール」としての役割以上のこととしての「日本語」って何なんだろう。
端的に表しても、説得力がないな。
伝わるのかな。
きっと、言語習得の上手い人や、耳のいい人、言語習得のコツを掴んでいる人には容易いことかもしれないが、私にはまだまだ難しい。
あと、地元語(母国語)でしか表しようのない感情がある。
東京生活も長くなり、地元語(母国語)を使わない日々が年単位になると、言語による違和感は「いずれ過ぎ去る感情」として処理しながら生活してく。
しかし、ますだはそこを揺さぶる。
「おい、その感情を見つめろ。燃やせ。ぶちまけろ。こちとらぶちまけてるぞ」
と言ってくる。
私の中の「荒ぶる神」が暴れだす。