普通の人

普通の人の日常

美意識と過去と未来

『マチネの終わりに』を読んだ。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 ネタバレあり、ご注意ください。

 

 

 

あらすじとしては、天才と称されるクラシックギタリストと、婚約者のいるジャーナリストの女性の運命的な出会いから始まる物語。

 

 

評価が高いのは知っている。

でも、わたしは何だか困った顔をして読み終えた。

どう捉えれば良いのだろう。

誰に感情移入すれば良いのだろう。

最近誰にも感情移入できない本が増えている。

感情移入できないのはいい。

そういう本はそういう本で楽しみ方がある。

でも、感情移入できなくても面白い、読んでよかった等代替する感想が圧倒的にないと、なんだか困った顔で終わる。

 

まず、根本的に美意識が違ったと思う。

私は、「どっこい生きてる」みたいなものが好きだ。そこに圧倒的美を感じる。宗教的なものでもいい。もう抗えない感情の野生と理性が混沌とした中に、慈しみと愛おしさと美しさを感じる。

「主人公」の蒔野と洋子の容姿に対する重要度合いに、まず美意識の違いを感じた。

そして、容姿に恵まれた「主人公」達の、容姿に恵まれたから得られる特権について何も語られていないことに対しての、「他の問題に関しては深く考えるのに、なぜここにはつっこまないのか?」とか、それって米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で、こういう矛盾あったなとか、いや、言いたいことはわかるし、私なりに理解しているつもりだが、いろいろと思うところもあって、二人の関係が恒久的に続くほどの運命性を感じなかった。

 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 

 

未来が過去を変えるのはわかるし、そこにおいて、救われた人は多々いると思う。

私は生きていく中で、今生きている道が過去を変え、それに救われた経験がいくつかあるのでよく分かる。

でも、それは今を、懸命に生きた結果としてのご褒美だと思っている。 

 

「懸命に」の部分が、この物語の「主人公」たちにおいては、多分に他者に委ねられている気がする。

「懸命に」は、自分自身も懸命に生きた分、価値観も大切なものも大きく変化し、そこでその変化した価値観に全身で挑んで身を委ねた結果、未来が過去を塗り替えたという結論に至るのだと考える。

別にもっと苦労しろと言う話でもない。

例えば、三谷さんは自分で「懸命に」(適切かどうかは別にして、必死さ具合として)未来を変えようとし、変えた。

それは決して褒められた話じゃないし、醜い感情だし、過去を美しく変えるものでもなかった。

でも、結局洋子に事情を話した。

それだって、彼女が常に自分のために行動していたとしても、「懸命に」生きていた。

もっと幸せな生き方、自分を「脇役」などと思わない生き方や考え方もあっただろうに、「懸命に」生きていた。

過去を改めて「つらい過去」と認識することだって、過去を変えたことになるし、「つらい過去」と改めて認識することによって、逆説的に救われることもある。

 

「主人公」達は恵まれすぎていて、自覚的に「懸命に」生きなければイージーモードで生きていける。

イージーモード具合に苛立つ「主人公」達のイージー具合は自覚されていなくて、自らハードモードに身を置く感じはわかるんだけど、自らハードモードに行けるってのは、人生イージーモードだったからっていうのは確認されていない。

 

すごくキレイな上澄みの水のたった一粒の砂の話を聞いているような気持ちになった。

 

うーん、批判じゃないんだな。美意識が違うとしか言いようがない。 

 

蒔野と洋子はお似合いのカップルだと思う。

一緒になって欲しいと思う。

でも、全く憧れない。

美しいとも思わない。

私はひねくれているのかもしれないと思う。

でも、そのひねくれこそが私の過去も含めた今であり、いつかこの過去も、未来の出来事によって、美しい過去となることを祈る。